なぜ「黄金の国ジパング」と日本は呼ばれたのでしょうか?

日本における金の利用は、弥生時代に始まったようです。エジプトのような大規模収集は行われないで、遺跡にわずかな利用跡が残っている程度です。

次の古墳時代には金の利用が大規模になってきました。この時代では金メッキを使った刀剣類や馬具が見つかっています。ただ、金の採集量が少なかったのか、純金製の製造物はあまり見つかっておりません。

「日本書紀」に、日本の文献最古の金の記述があります。そこからは西暦600~700年ごろになってようやく、国が金の資源としての価値に気付いたのがわかります。700年半ばには大仏に使用する金箔のため大量の金が必要となり、陸奥国から大量の金が産出されたことに感激し、聖武天皇が改元した話が記載してあります。またこの頃から渡来人経由で金の生産技術を学び、金の本格的生産を始めたのがわかります。

平安時代になると「今昔物語」の中に、佐渡へ金を掘りに行く話を見ることができますし、奥州藤原氏が平泉に中尊寺金色堂を建立しました。平安時代の奥州は金の一大生産地となっており、マルコ・ポーロが日本のことを「黄金の国ジパング」と記述したのも、あながち間違いではありませんでした。

室町時代には京の北山に通称金閣寺と呼ばれる鹿苑寺が建立され、戦国時代に入ると戦国大名達は、軍資金とするため鉱山開発を活発に行いました。この当時開発された鉱山は佐渡以外にも、石見の大森、但馬の生野、三河の鳴子、越中松倉、駿河の海ヶ島と富士、伊豆の土肥、甲斐黒川、摂津の多田、能登宝達、飛騨茂住、出羽の院内や阿仁や荒川、奥州の白根などがあります。

甲斐の武田信玄が強力な騎馬軍団を編成できたのは、彼の領国である甲斐と信濃が有力な金の生産地だったからです。山梨県には彼が開発した金山跡がたくさん残っています。信玄はまた、日本で最初の金貨幣を造ったと言われています。

そしてその武田氏を滅ぼし、その金を一手に握ったのは織田信長。彼は居城である安土城に大量の金を使用し、その金箔瓦は遠方からでも輝いていたと文献に記されています。信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉は、信玄、信長以上に金に執着し、金の茶室や天正大判を作ったりして、絢爛豪華な安土桃山文化を作り出しました。

江戸時代に入ると徳川家は佐渡、串木野、土肥といった金の生産地を根こそぎ幕府領にして、幕府の財政を支えました。特に佐渡の金は海外へも輸出され、ヨーロッパの銀貨に大きな影響を与えたそうです。

産出技術は戦国時代にポルトガル人宣教師から伝えられ、製錬に水銀を使用するアマルガム法まで伝えられたようです。しかし金の産出量は右肩下がりに減少していくことになります。五代将軍綱吉の治世になると、金の含有量を少なくするよう小判を改鋳し、流通量を増加させた結果インフレ状態になり、物価が上昇して庶民の生活を圧迫するようになりました。

明治維新後、新政府は財政安定のため積極的な金山開発を推し進めますが、残念ながら日本国内の金はほぼ掘り尽くしていました。現在日本国内で金が取れるのは、鹿児島の菱刈鉱山のみとなっています。

現在日本の金鉱山生産量は年8トンあまりで、前述した菱刈鉱山から採堀しています。しかし現在の金生産量の多くは金鉱山からではなく、銅鉱石の副産物として出てくる物に支えられています。三菱マテリアルや住友金属鉱山といった製錬会社は、銅鉱石に含まれる金から金の延べ棒を生産しているのです。

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