時代劇で、罪人が佐渡に流刑になるシーン、あれってホント?

佐渡は古くから金山で知られる島。佐渡で金が出るという話は、平安時代の今昔物語にもあります。1000年近くも前から佐渡に金があるという話が伝わっていたのです。

いくつかある佐渡の金山のなかでは、江戸幕府300年の財政を支えた「相川金銀山」が有名です。関ヶ原の戦いの翌年の1601年、徳川家直轄の金山になりました。

佐渡はまるごと徳川家の支配下にはいり、天領となりました。その後、閉山までに掘られた坑道は400キロメートル、産出した金は78トンに及びました。

開山した当時の佐渡には大量の人が流れ込んできました。鉱山技術者や坑夫はもちろんのこと、金銀を扱う商人、蝋燭屋、鍛冶職人、石工、畳屋、足袋屋、仕立屋、大工など。急にふくれあがった人口を支えるため、さまざまな物資が運び込まれました。

宿泊施設、娯楽や休憩場などもつくられて、佐渡の金山周辺は空前のにぎわいを見せましたが、金の採掘作業は過酷であり、坑夫の労働寿命は3~5年といわれ40歳を越える人は少なかったそうです。

作業に従事したのは貧しい農家の二男・三男坊や、出稼ぎでした。時代劇でよく描かれるような、重罪を犯した者が佐渡金山で酷使されるというケースは、現実には少なかったようです。

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